2024.9.1

 

本日、東京外郭環状道路(外環道)計画の中止を求めている市民団体「市民による外環道路問題連絡会・三鷹」(松井朝子代表委員)は「外環道路と住民主権」の集会を開き、埼玉大学名誉教授の工学博士・岩見良太郎氏を講師にお招きしました。

 

都市と再開発。

 

住民無視のまちづくり計画は、この外環道工事以外にも、全国各地で行われています。

 

中でもこの外環道工事は特に酷い。

 

「地上の地権者の了解を得ることなく、地下40㍍以深ならば、勝手にトンネルを掘って良い」とする、外環道工事。

こんな道路工事があっていいものなのか、信じられません。

 

住民主権のまちづくりは、夢なのか。

 

岩見良太郎先生が、歴史から遡り「都市計画」についてお話してくださいました。

 

旧都市計画法(1919)では、天皇のため、国家の為の都市計画法でした。

 

戦後、日本国憲法公布により基本的人権、都市計画の目的に「公共の福祉の増進」の文言により、まがりなりにも「住民参加」となり、国ではなく、知事、市町村に都市計画決定権が与えられるようになりました。

ですが、依然として旧態依然、住民無視・官主導の都市計画が行われ、企業主権企業高権の都市計画が行われています。

 

本来ならば、まちづくりとは、住民主権のまちづくりでなくてはならない。

住民主権のまちづくりとは、生活者の視点に立ったまちづくりであります。

 

住民主権からは程遠い、都市計画法制度。

都市計画の決定権限は自治体にあり、例え100%住民が反対したとしても、強行できる都市計画。

公共性の判断権は自治体にあり、・アリバイ的、形式的な住民参加。それは外環道工事で嫌と言うほど味わっている、形だけの住民説明会や、公聴会などであります。

そこで問題なのは、都市計画の「構想段階からの参加」はなく、そこに住む住民への説明は、紛争リスクの対策、それは「後で文句が出ないよう、事後の手続きの円滑化」なのであります。

 

自分は初めて知りましたが、都市計画についてイギリスではより実質的な住民参加が行われているらしく、住民の意見を聞き計画を策定し、住民側もまちづくりの学習を徹底して行う制度になっているそうです。

徹底した住民参加のイギリス、これは凄いな、と思いました。

 

現在日本では、土地権利者、地権者が都市計画事業への参加が実質認められ、地権者のみが発言権を持ち、まちづくりとは不動産事業になっており、都市計画がまちづくりならば、本来参加はすべての人に開かれるべきであります。

 

地権者の合意のみで再開発が勧められる、よく耳にする話だ。

自分は再開発の話を聞くと、いつもそこが疑問に思っていました。

 

都市計画では企業主権が幅を利かせ、再開発事業では地権者の三分の二の賛成があれば、その街の知事は「認可しなければならない」

国家戦略特区により奪われる自治体の都市計画決定権、反住民主権。

 

それは、ル・コルビュジエというスイス生まれフランスで活躍した有名建築家の思想が、100年経った今でも生きている、それは「住む・働く・遊ぶ・交通が充実した、効率的都市を目指す。とりわけ、交通機能を重視する」

そこには、「住民自治の考えは欠落している」=都市計画の専門家、それを実現する権力によってのみ、優れた都市は計画できる、という思想。

 

やっぱりそれはおかしい。

まちづくりとは、そこに住む住民の考えがあってこそ。

なるほど、と岩見先生は自分が違和感に思っていたことを明確に言葉にしお話ししてくれました。

 

どう考えても住民の意向が無視されている。

このような再開発やまちづくりの問題に関わるとなぜかいつも疑問に思う、住民無視の事業。

 

それは過去の歴史から来ていて、いまだに過去の有名な人の思想が息づき、それは時代と全くニーズがあってないにも関わらず、それを止めることができない。

 

憲法が活かされず、それどころか憲法無視公共工事が強行される。

 

海外では全くのまちづくりの素人が、素人の視点でニューヨークの高速道路、再開発計画を廃止に追い込んだ、暮らしを支える3つの場、それは住まい、道、居場所、などなど、盛り沢山な内容でした。

 

最後に岩見先生はこうお話されました。

 

「政治生活は遠くにいる専門家の独占物になるのではなく、主婦が八百屋や肉屋に買い物に行くように日常生活の普通のことに、また、男が床屋へ行くよりも頻繁なことにならねばならない」(L.マンフォード『都市の文化』より)

 

これは全ての問題に行き着く言葉。

 

まちづくり、生活、そして政治。

政治=生活、政治が良くなれば、生活は良くなる。

そして、普通の人々が、政治に密着し、政治に参加すること。

それは、普通に働く人々からしてみれば、とてもハードルの高いことなのかもしれませんが、それをしなければ、自らの生活が維持できなくなる。

 

政治は現在、国民の所得がどれだけ下がろうと、国民生活がどれだけ破綻しようと、国民を無視した政治を行っています。

それは、この外環道の問題だけではなく、能登半島地震や格差社会をみていれば明らか。

 

それは、国民が政治に関心が持てなくなるように仕向けているようにも思える。

生活に追われ、政治にまで目がいかない。

それは当然、そうなる気持ちもよくわかります。

 

だからこそ、政府は、政治は好き勝手にやる。

権力とはいつもそういうものだ。

 

この外環道工事は、沖縄などの米軍基地問題や原発問題と同じ「その街に住む人々は何も悪くないのに、不条理を押し付けられる」。

 

地上より40㍍深い場所ならば、地上の地権者に同意を得ずに、トンネルを掘ることが出来る。

こんな不条理はない。

 

そしてそれは、企業主権、企業高権、地権者主権の姿勢こそそうなる。

 

まちづくりとは、住民主権でなくてはならない。

それは、そこに住む人こそが本当の主役なのだから、当然のことなのです。

 

(報告かい正康)